失敗例

売却間近に主要社員が退職し価値が棄損。破談に

名称 人材紹介会社 甲社 設立 1985年
従業員数 15人 資本金 1,000万円
売上規模 約4億円 経営者年齢 60代
主な資産 なし 株式 代表者100%
事業内容 医療系人材紹介サービス、人事コンサルティング

【序2011年】

「これが社員のホンネということか」。甲社の社長S氏は友人であり、M&A仲介会社を引退したM氏に向かって力なく言葉を発した。既に甲社には手の打ちようがなく、あとは清算費用を工面するためにS氏は所有していた土地を処分するという。自宅をとられることはまぬがれた。久方ぶりに友人と酒を酌み交わし、景気のいい話でも聞かせてもらおうと思っていたのだが、全く予想外の展開だった。「今まで会社のために頑張ってきたのは何だったのか…」。その言葉にM氏はかける言葉が見つからなかった。

【立ち上げ1985年】

S氏は1985年に17年間MR職として勤めた大手製薬会社を退職。製薬会社や医療系をメインとした人材紹介事業を行う甲社を設立した。前職の大手製薬会社での営業成績は常に上位。「たたき上げ」という表現がぴったりで、昼は病院、夜は接待、その後会社に戻って仕事をし、深夜にタクシーで自宅に帰るという生活だった。
30代後半で結婚を機に独立を決意した。甲社設立後は、多忙でも「酒の席で話したこともきちんと覚えているのに、決して口外せず助け船をくれる」(取引先関係者)という姿勢が、周囲から「頼れる存在」となっていった。
元甲社社員は「S氏が転職支援した人材が、次の転職先を検討するときにはS氏を頼ってくる。友達も紹介してくれる。それがどんどん増えていった」と話すほど人望が厚かった。一方の、企業からも信頼されている様子を、設立時より取引きする担当者はこう話す。「Sさんが紹介してくれる人材なら、大丈夫だろうという安心感があった」。

【成長期1990年】

少しずつ増えた社員のモチベーションを維持させようと、成功報酬を手厚く組み込んだ給与体系にし、接待費は惜しまず使わせた。フレックス勤務制度や社内のルール作りも重要視した。ソフト面だけでなく、ハード面でも顧客管理や営業支援システムは積極的に改良した。社員にとっては時間の自由度が高いS氏のマネジメントと努力に比例する給与に満足している声が多かった。「娘がおたふく風邪で1週間寝込んだとき、半分は私が看病して、自宅で仕事しました。うちは共働きだったので妻にはえらく感謝されました」(甲社元社員)。
しかし、その一方で不満を持つ社員の存在もあった。営業成績が芳しくない社員の場合は、生活できる最低限の収入となり、その上、サービス残業や接待で遅い帰宅時間に加え、休日出勤も日常化していた。

【停滞期2005年】

甲社の廃業はこうした人的資源管理の問題も一因となった。また、時代とともにインターネット環境が向上したのも裏目にでた。取引先との直接の関係構築より、電話とメールでやり取りを終わらせるようになり、足で稼ぐ営業活動を軽んじる様子が散見された。その結果、友達紹介等のつながりが少なくなり、全体的に受注数が落ち込み始めていた。
そのような中、S氏は落ち込みを補填しようと教育事業に手を出したが、これが不発に終わる。人材に付加価値を付けて転職支援を始めた。しかし、集まった人材は専門知識をほとんど持たず、転職するまでに膨大な教育費がかかった。見切り発車した新規事業で、一人でも多く人材紹介で売上をたてようと多額の広告費をつぎ込んだ。しかし、半分近くの人材が甲社からの転職の斡旋を辞退した。格安の授業料につられただけで、転職支援を必要としていなかった。そして、この悪循環は当然のように本業を圧迫した。S氏に否定的な取引先はこの教育事業を「目先の売上にばかりとらわれて、採算を度外視するような無理な計画だった」と話す。

【売却検討、そして破談。2010年】

S氏は2010年、意を決し同じ業界で人材派遣会社乙社を経営する知人K氏にそれとなく事業譲渡の相談をした。S氏自身も68歳となり、そろそろ引退したいという想いがあり、このまま続けてもさらなる縮小は目に見えていた。
乙社は甲社の譲受に乗り気であった。同じ人材業界で派遣事業を主とする乙社は、より専門的な領域でのサービス展開を望んでいた。「甲社には即戦力の営業マンがそろっていた。売上は下降しているものの、まだまだ営業マンには実力がある状況だった。転職希望者の情報も豊富だった」(乙社の担当者)。S氏とK氏の話しあいのもとで売却の具体的な話が進み、方向性が決まったところでS氏が社員に対する説明会を開いた。
しかし、その説明会後、甲社社員からは「乙社には移りたくない」「継続雇用は希望しない」「独立を考えたい」等の否定的な意向が多く出された。そして、その理由にS氏は唖然とした。「今まで自由にやってきたのに、これからは時間管理されるのは耐えられない」「成果を出しても報酬があがらないシステムなら、自分でやるほうがいい」「営業職ならどこでも募集している。給与が下がるのに行きたくない」等の言い分であった。そして、あろうことか甲社の社員5名は既に自分で転職活動を進めていることがわかった。S氏とK氏のやりとりが頻繁に社内で行われていたこともあり、ある程度社内に情報が浸透してしまっていたのである。
結果、甲社の最大資産である主要な営業マンが抜けることとなり、乙社と甲社の事業譲渡の話はあっさり頓挫した。甲社は、成功報酬型の仕組みであり、業績が悪ければ人件費も抑えられる仕組みであったので、今回の件を機に間接部門の人員を減らし、会社の規模を縮小して残された営業マンでやり直そう、何とか借入分だけは返済しようとS氏は考えた。しかし、その判断が追い打ちをかける。労働基準監督署(労基署)から指導を受けて、社員に対してサービス残業代を支払う事態となったのである。S氏としては、今回の件で退職勧奨の上退職となった間接部門のうちの一人が、駆け込んだのではと考えをめぐらしている。
主要な営業マンを失った上に想定外の費用が発生し、甲社の状況は急降下。S氏は個人で所有していた土地を売却して借入分を確保し、会社を清算した。担保としていた自宅は手放さずに済んだことが幸いであった。

教訓

・譲渡すべき価値(本事例は営業マン)が明らかに棄損した場合、売却価格の低下、さらには譲渡の不成立にもつながる。
・賃金形態・就業形態・雇用形態等は組織風土を構成する要因。社員が自社の組織と“何をもって”つながっているのかを客観的に見ることが大切となる。

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