失敗例

売却金額にこだわりすぎて、貴重な売却機会の損失に

名称 繊維製造会社 甲社 設立 1950年代
従業員数 40人 資本金 5,000万円
売上規模 約3億円 経営者年齢 会長88歳、社長59歳
主な資産 土地・工場・機械設備 株式 会長70%、社長30%
事業内容 繊維製造業・繊維織物製造業

【甲社】

2005年の晩秋のある日、社長のB氏は会議室のドアの前で動けずにいた。今年米寿を迎える会長A氏へ自社の売却ができなくなったと伝えに来たが、何と伝えたら良いかわからないのだ。
甲社は1950年代に創業し、繊維製造業・テキスタイル製造業を営んでいる。地元では知られた企業であった。会長A氏は創業者。B氏は息子で社長を任されている。A氏は地元の織物工場に勤め、結婚してB氏が生まれた頃、得意先の社長の薦めで甲社を起業した。当時は「特需」「糸ヘンブーム」と繊維業界も沸いていた。

【新体制。しかし時代とともに暗転へ】

甲社は国内販売とともに東南アジアへの輸出も行い順調だった。また、テキスタイル製造、つまり織物事業へと拡大した。1970年代後期、息子のB氏が大学卒業後に勤めていた商社を退職し、後継ぎとして甲社に入社した。新規のテキスタイル事業の技術統括はA氏が担い、営業はB氏が担う体制となった。繊維業界では特定の大学出身者に有利に働くことがある。B氏は大学や商社で培った人脈を活かしテキスタイル事業は盛況だった。
しかし、80年代半ばを過ぎると赤字計上が多くなった。円高の影響で海外輸出が激減したが、最大の打撃は大手繊維企業の不振だった。大手向けの国内販売も激減した。売上は絶頂期の50%にまで落ち込んでいた。
繊維業界は薄利多売が基本となる。そのため生産量を減らすことは難しい。一定の生産量を堅持して、売上を保ち、雇用を守り、設備を維持する。この繊維業界の常道が通じなくなっている。もともと利鞘の多い業界でないのに加え、物価の上昇、賃金の上昇でさらに利益が圧縮された。それに追い打ちをかけるような大手の不振は、今後も長く続きそうな様子だ。この頃は、後に「バブル崩壊」と呼ばれる時期にあたる。

【2000年代。ついに会社売却の検討】

「バブル崩壊」から10年以上が経過しても、甲社はなんとか凌いでいた。A氏がきちんと技術管理をしていたことで高品質を保ち、わずかながら売上は維持できた。しかし80年代に採用した従業員が30名おり、彼らの雇用を維持するため、A氏とB氏は会社へ個人貸付もした。そして甲社の負債が年々増加していくことになる。
この時期になってB氏は他社への売却を考え始める。B氏には甲社の限界が見えていた。営業と経理を担当しているB氏は甲社の危機を肌で感じていた。B氏はM&A仲介会社に相談していた。B氏は大手の繊維メーカーに国内工場として買収してもらおうと考えていた。職人気質のA氏は財務・経理に関してB氏に一任しており、具体的に甲社がどの程度危機的な状況かは理解できていない。財務分析報告書を指さし「債務超過になる前に!」と必死に説明する息子に「従業員が食べていけるなら…」と甲社売却に同意するしかなかった。

【価格交渉】

紹介された企業は数社あり、ほとんどが大手アパレル企業だ。その中で最も友好的な乙社と話を進めることにした。「甲社が開発した繊維は高品質であり、弊社の新製品の主原材料としていきたい」というのが乙社のコメントだった。A氏は従業員の雇用維持を条件にするようB氏に言った。従業員は40代半ばの者がほとんどだった。売却金額5億円はB氏の提示した条件だ。5億円で株式を売却できないと今まで個人貸付してきた分が取り戻せないのだ。甲社の決算書には現在4,000万円の土地が購入時の金額8,000万円で計上されている。A氏が友人から購入した株式2,000万円もそのまま載っている。しかしB氏は工場や設備が揃っていることをもって5億円程度で売却は可能だと思っていた。
しかし、仲介会社と乙社側が提示してきた金額は2億円。B氏は「これはおかしい。土地も建物も自社所有ですよ!いくらなんでも安すぎるでしょう」と再検討を求めた。乙社側は、「御社の技術力は確かなものです。しかし固定資産はバブル期直前に購入されたもので、御社の帳簿価格を期待されても…。有価証券をお持ちのようですが、地元の企業様ですよね。この企業様についても検討しましたが、甲社と事業の関連性は全くないですよね。この株式は換金性がなく、評価が難しくなります。平均年齢44歳の従業員の雇用維持にも協力するわけですし…」。決算書のほとんどの項目を否定されたようだ。どうやら再検討の余地がないと言いたいらしい。

【破談…その後】

何度か話し合ったが、結局折り合わなかった。B氏は仲介会社に同規模の売却事例を見せてもらったが、乙社からの提示金額は決して低くはないようだった。B氏は金額条件を下げるか迷い始めていた。そんなある朝、B氏が新聞を読んでいると「乙社国内生産縮小」の記事が目にとまった。その後すぐに、仲介会社からも連絡があった。甲社の買収を正式に見送る旨の報告だった。2005年の晩秋のその日、B氏は出社すると会議室へ向かった。会議室に着くまでにA氏へどう伝えたらいいか考えなければならい。会議室へ向かう足が重い。
その後、甲社は金融機関から追加融資を受けた。自宅は担保に供した。A氏、B氏は連帯保証契約を結んでいる。さらに返済条件の変更も行った。金融円滑化法を頼って2度目の返済条件の変更も申し込んだ。さらに、役員給与をゼロにし、従業員の一部解雇と給与の大幅カットとした再建計画を携えて銀行へ行った。6億円の債務超過を10年で解消する計画だった。
しかし2度目の返済条件の変更は認められなかった。そして、新たな融資も得られなければ、現在の返済を続けると再建計画を実行しても半年後には資金が底を突く。自宅を手放しても弁済しきれないであろう。B氏は自宅を立ち退かなければならない老いた父親(A氏)を脳裏に浮かべた。そして半年後に従業員が動揺して困り果てる姿、さらに自分自身は破産手続きをした後の生活を想像した。それでも目の前には仕事がある。その仕事に向かいながら「価格交渉の日」を後悔し続けている。

教訓

・買収側の意向は状況に応じて日々変化する。その意向は、あくまでも"今"の話。
・"良き出会い"はめったに訪れない。鳥の目でその機会を捉えることが大切。
・特に、業界自体が縮小傾向にある場合は、技術力・歴史があっても高額の売却にはなりにくい。

M&Aの無料相談 お気軽にお問い合わせください